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中日両国の文学の淵源関係について中日文学渊

发布时间:2015-11-16 13:19

摘 要:中日両国の文学においての関係は漢•唐時代にも遡ることができる。古代には日本は続々と中国の古典文学、特に漢文学を取り入れ、その内容・構造から思想・表現まで様々の面で真似てきていたと同時に、自らの特色も加えたが、明治維新の後、強くなった日本に対して中国では、時代息吹たっぷりの日本文学の翻訳紹介のブームを成した。

关键词:中国文学;日本文学; 影響;翻訳紹介

1、はじめに
      よく「一衣帯水」と中日両国の関係は描かれているが、両国の言語と文化の面は従来、比較対照の脚光を浴びているにもかかわらず、文学というものは言葉一つ一つからなって一定の文化像を表現しているので、必ず何らかの係わりがあってつながっていると思う。
    両国の文学における関係と言えば、勿論日本文学を中国文学の従属物と見なすショービニズムは決して間違っているが、「古代では日本は中国を通じ世界に接したのに対して近現代の中国は、かえって日本によって欧米ひいては世界に接した」の言われたとおり、両国の文学交流もそういう流れであろう。古代について言えば日本は続々と中国の古典文学、特に漢文学を取り入れ、その内容・構造から思想・表現まで様々の面でいずれも真似てきたが、近代になって特に明治維新の後、強くなった日本に対して中国は、その文学に目を引かれた。そして両国の文学においての比較対照といえば、一つ一つの作品を取り上げて研究するやり方はより相応しいのではないかと思われる。
2、中国文学に影響を受けた日本文学の特色
 中国の文学発展の主流を大まかに言えば詩の発展、続いては唐詩と宋詞が定格してきたが、いずれもその次第に長くて内容の面でも豊かになってきて、明清小説がそいう特色をいっそう見せているのである。その長い長い文学の発展史にできたたくさんの名作が日本各時代における各ジャンルの文学作品を大いに影響している。以下はいくつかの例を拾い上げ、両国の文学交流の特色をまとめようと思う。
2.1、中国春秋・戦国時代の作品から見る日本文学
 中国の春秋・戦国時代は中国初めの文学高揚期と言える。この時期には諸子百家が現れ、各説は次々と出番して支配者の目を引けるように活躍していた。『荘子』の「無為」と「天命に従う」という思想は直接『今昔物語』に影響を与えていた。「轍水の鮒魚」のような日本人の現世観と一致している物語を翻案したものもあれば、「雁木の間に生きる」という立派な人間と無用の人間の間に生き、言わば孔子の中庸の道である処世術も日本人によく知られ、好まれている。また「無用之用乃為大用」も隠遁者の吉田兼好に「心を静まれ、物欲を断念し」という「無為」主張の形成に促していた。
『楚辞』は早くも奈良時代の日本漢文学に影響していた。例えば聖徳太子の「憲法十七条」の第十四条には特に「嫉妬」のデメリットを諄々と教え諭していた。この「嫉妬」のイメージを初めて現れたのは屈原の「離騒」である。また『懐風藻』に収録している詩、例えば下毛野虫麻呂の「五言秋日長王宅宴新羅客序」にある「悲しい秋」という主題を詠んでいる手法は同じく『楚辞』に属する宋玉の「九弁」を模倣したと見られている。江戸時代の林羅山もよく『楚辞』を知っており、ひいては屈原の高潔を詠んでいる詩「屈原嗅蘭」も作って『楚辞』のファンと言える。日本の文学者達は『楚辞』を中国原文そのまま受け取っているかまたは自国の文学要素を加えたのか、これを通じ、『楚辞』がどうのように彼らを影響しているかがわかったのである。
2.2、中国唐・宋時代の作品から見る日本文学
中国唐の文学は直接奈良・平安文学を影響し、遣唐使の中の阿部仲麻呂や空海、山上兞激胜嗓难Ы涣鳏舜螭い素曄驻筏俊K韦螘r代日本では、五山の禅僧が作った漢詩文の総称である「五山文学」という漢詩文文学のブームができた。その名称から中国南宋の五山(杭州と寧波の深山にある五つの勅造寺院)を真似た。漢詩文は言葉遣いから意匠、象徴主義まで真似していたと見られる。
漢詩の聯句は早くも漢武帝時期(紀元前140年――紀元前87年)から始まった。何人かが集まって順に押韻して一つの句か又それ以上の句を作り、一緒に一つの詩を成す。唐の時代では一層規範化し絶句や律詩、排律それぞれ定められている。江戸時代に正式に成立した俳句はもともと平安時代に流行っていた連歌を直接に受け継いでいるが、この連歌も和歌の中の短歌から発生してきたから。さらにこの和歌の一種とする短歌は中国の五言絶句や七言律詩の深い影響を受けた。だからこの俳句は中国の聯句と因縁関係を持つといえよう。
2.3、中国の明・清時代の作品から見る日本文学
明清小説も日本文学を深く影響した。例えば『奇異雑談集』の中には「金鳳釵記」・「牡丹燈記」・「申陽洞記」が収録されている。『聊斋志异』という小説のストーリーも近代小説家によって真似られ、翻案された。菊池三渓の『本朝虞初新志』は性格にも内容にも明らかに明清の際の『虞初新志』に影響され、体裁の面では『聊斋志异』を真似たと認められている。かつて黄遵憲に漢詩文を教われた石川鴻斎は、『聊斋志异』と『子不語』の影響を受けて日本の芝居『再生奇縁花神譚』と漢文『夜窓鬼談』を書いた。『再生奇縁花神譚』という小説も『聊斋志异』の二、三節の内容より脚色したと見られる。『夜窓鬼談』の中の「花神」のストーリーと描写手法は『聊斋志异』を真似たのである。その他、尾崎紅葉の『芭波川』が『聊斋志异』の「花姑子」とストーリーを元にしていたのではなかろうかと認められる。『聊斋志异』の中の断片ストーリーを元にした翻案作品もたくさんある。例えば『情史』に基づいた「旧宮人」、『小説粋言』を手本にした「菊花と水」、『石頭点』を真似た「人肉」など挙げ切れないほどある。
2.4、日本の文学作品から見る日本文学
日本の文学作品一つ取り上げても中国の文学作品からの特色が見られる。『源氏物語』には特に白氏の「長恨歌」の創作手法が著しい。例えば作品の主 人公については同じく君王に愛されている美しくたまらぬ美人(楊貴妃と桐壺の更衣)で、「红颜薄命」という主題も十分活かし、その後のストーリーの展開や「紅顔傾国」を通じ政治面の争いを描いて「色香に溺れると必衰」という法則を示している。
芭蕉も杜甫の風格十分受け継いだ。が、自分の特色も入っている。例えば杜甫が『茅屋為秋風所破歌』には屋根(草葺き)が強風に吹き壊される描写から一変して、自分の苦しい人生経歴へ述し変えて、さらにこの天下にいる杜甫自身のような才能を持つにもかかわらず苦しい生活を送っている士達に立派な部屋を作り、国の強大のため力を尽くそうと願っている気持ちを表した。平日自然の現象から現実社会や国民生活を論じる方へ転じるテーマは古くから中国文壇に高く評価されているからである。が、芭蕉の「伊勢紀行」には只その強い秋の風に壊された草葺きを真似て、雨の夜の趣を描いているのにとどまった。芭蕉が杜甫の後半の部分――つまり国や社会に配慮する主題となる部分をまったく関心せずと言うより日本文学者の中国文人と違っていて、文学における芸術性を求めてる点、いわば脱政治性を十分表現している方がより適切ではなかろうか。
これらの翻案作品は中国の優秀な文学作品を紹介するとともに自らの創作要素も十分入っていて脱政治性など自分独特の特徴をなしていた。こうして両国文学の繋がりとしての共通点という淵源伝承関係が伺われている。
3、日本文学に影響された中国文学の特色
明治維新を境に、その前日本の方は中国から強く影響されていたが、その後特にアヘン戦争から新中国成立までの間、不安定な中国社会にいる文人達は民族独立と自主の戦いのため日本文学特に政治小説をたくさん倣った。
3.1、新中国成立の前、中国における日本文学の翻訳紹介
新文化邉婴螘r期日本文学の翻訳紹介はブームとなった。近現代以来日本文学を中国に翻訳紹介して、中国の新文学の興しに大いに寄与した周氏兄弟――魯迅と周作人――に言及しなければいけない。岡野辰之(1993)の大まかな統計によると魯迅によって翻訳された作家は九十人余り、合わせて65部著作もあった。それを通じ中国は欧米文学理論などへの理解に寄与した。魯はの日本文学翻訳紹介といえば文学芸術や美意識を重んじるのではなく、社会性と思想内容を大切にし、国民を励まし、民族の覚醒を目的としたのであるため、特に政治性と社会性のある文学に注目しているのである。 
 周作人はわが国における日本文学の翻訳紹介の先駆者と言われ、「古事記」や「枕草子」、「平家物語」、芭蕉の俳句から近現代の武者小路実篤・永井荷風などの有名な作家・作品まで無差別に紹介するとともに、文学流派(耽美・白樺派)も国民に紹介した。
 かつて日本に留学した郭沫若の詩集『女神』には日本の和歌、俳句の影響が見られている。彼はその後、白樺派の影響で「漂流三歩曲」と言われる「歧路」「煉獄」「十字架」「行路難」などの表現主義的な私小説へ転じた。続いて国情の元で日本のプロレタリア文学の影響でまた現実主義へ変わった。
鬱達夫の「沉淪」は叙情的な心境小説であり、主人公は同じく憂鬱症を患う、佐藤春夫の「田園の憂鬱」を真似た。ただし、その憂鬱の原因としては前者は国の復興や社会の安定であるのに対し、後者は徒然なる生活から生まれた。この点からも日本文学の脱政治性の特色が伺われる。
3.2、新中国成立後、中国における日本文学の影響
現代に入り、日本文学に深く影響を受けた中国作家が生まれた。川端康成の「伊豆の踊り子」に感銘した余華や川端康成・大江健三郎・三島由紀夫・安倍公房などに影響を受けた杜撰、村上春樹の影響で中国版の「ノルウェーの森」といわれている「滴涙痣」を書いた李修文などが挙げられる。
新中国成立の前の戦乱時期、プロレタリア革命のため小林多喜二や徳永直、宮本百合子などの作品は大人気であったが、文化革命十年の間、三島由紀夫「憂国」が翻訳されたにもかかわらず、日本軍国主義への批判としてのモデル作品だった。改革解放以来真面目に日本文学作品を紹介するようになった。夏目漱石・芥川龍之介・井上靖・川端康成・大江健三郎・村上春樹・渡辺淳一などの名家の作品をたくさん紹介された。作家作品のほかに、文学流派例えば耽美派・白樺派・自然主義・新感覚派なども中国文壇によく人々に知られている。その他、松本清張などの小説も紹介された。中国での日本文学研究は本格的に始まった。
振り返ってみると、中国が日本文学を取り入れた過程といえば写実主義・ローマン主義・自然主義・耽美主義・白樺派理想主義・プロレタリア主義・新感覚派文学などを経た。だから中国の近現代文学は日本文学発展過程のような経歴、つまり政治文学・人的文学・プロレタリア文学・現代文学・当代文学というように成している。
4、おわりに
 以上は古今に渡って両国の文学の出会いを簡単に振り返った。主に明治維新を境に、その前日本はずっと中国の文学を取り入れて真似ると同時に自らの特色を保ったが、その後中国は封建社会崩壊の背景で強くなった日本の文学を積極的に翻訳紹介した。勿論この時期にも日本作家、例えば満鉄調査部の作家たちは目の当たりで見た中国に対する独特の一時のイメージがある。新中国成立の後でも現代中国作家は引き続き日本文学作家の性格を受けてきた。しかし、両国の文学交流というテーマは実に広い分野であるし、本文でも両国の悠々とする文学交流史におけるわずかな例を挙げたし、より詳細に渡る考察はなければ完全に両国の文学交流問題を理解できるはずはないと思われる。それは今後の考察に任せたいと思う。

参考文献:
[1]中国作家协会辽宁分会编著,文学大观(C)沈阳:文学大观编辑部,1985.
[2]叶渭渠著,日本文学思潮史(M)北京:北京大学出版社,2009.
[3]王向远著,日本文学汉译史(M)银川:宁夏人民出版社,2007.
[4] (日)市古员次著倪玉等译,日本文学史概说(M)长春:东北师范大学出版社,1987.

作者简介:陈宇梅(1986--)女,汉族,广西桂平人,学士学位。现为广西大学2010级在读硕士研究生。研究方向:中日文化交流、日中机器翻译。

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